1938年大阪生まれ。写真家・岩宮武二、細江英公のアシスタントを経て64年に独立。写真雑誌などで作品を発表し続け、1967年「にっぽん劇場」で日本写真批評家協会新人賞受賞。1968-70年には写真同人誌『プロヴォーク』に参加、ハイコントラストや粗粒子画面の作風は“アレ・ブレ・ボケ”と形容され、描写の精緻さ、フレーミングの巧さなどそれまでの常識にとらわれない作品で写真界に衝撃を与えた。ニューヨーク・メトロポリタン美術館やパリ・カルティエ現代美術財団で個展を開催するなど世界的評価も高く、各国で個展を開催するなど現在も精力的に活動を行っている。
本作品は1978年に撮影された作品である。この時期の森山は体調も芳しくなく、撮影を行うことも少なくなり写真を撮る行為すら無意味に感じられるほどであったという。そうした閉塞した状況からの打開を求めて、少年時代からの憧れの地であった北海道行きを決める。森山は札幌にアパートを借りて約3ヶ月間滞在し、友人、知人とも会うことを避け一人でただ撮影することのみを日課とする毎日を過ごした。しかし、この滞在は、期待通りの結果を得られず挫折感と共に東京に戻ることになったという。写真の中に佇む馬からは、そのモチーフの特性ゆえにどこか叙情や情緒を感じる、と同時に不安や陰鬱さも感じることもでき、私たちの情感を強く刺激してくる。このように、本作品は当時の森山の心の揺れ動きが閉じ込められた作品と言うことができるだろう。
1920年東京生まれ。日本における現代銅版画の先駆者として大きな足跡を残す。慶応義塾普通部在学中にエッチング研究所にて銅版画の技法を学び、36年東京美術学校油画科に入学、油彩画の制作に励みながら、臨時版画教室において銅版画を試みた。恩地孝四郎が主催する「一木会」に参加して技術を成熟させていきながら、ボードレールなどといったヨーロッパの文学に親しむことで作品主題の心的側面を発展させていった。また、駒井は生涯を通じて銅版画を追求した一方、詩人や音楽家と交流し、総合芸術グループ「実験工房」での活動や詩画集の出版などで、文学や音楽との領域横断的な表現を試みた。
《束の間の幻影》では、洋画家岡鹿之助の点描法から影響を受け、サンドペーパーを用いて、さらに版に点を打ち、アクアチントのように淡い階調の面を獲得する技法が用いられている。この作品で第一回サンパウロ・ビエンナーレ、第二回ルガノ白と黒国際版画ビエンナーレで日本人として初めて受賞し、駒井が国内外で一躍脚光を浴びるきっかけとなった作品である。
1947年長野県生まれ。ポスト・ミニマリズムやもの派といった潮流の中で解体された彫刻の再構築を試みて、1970年代より一貫して人間の存在認識に通じる彫刻の原理とその構造を追求し、作品制作による実践によってその本質と可能性を提示し続けてきた。彫刻概念の再定義を試みたコンセプチャルな作品シリーズを発表した後、チェーンソーを使った木彫作品を中心に1984年から「森」シリーズ、1994年から「《境界》から」シリーズ、2000年頃から「ミニマルバロック」シリーズなどへとその試みを展開させていった。1988年にヴェネチア・ビエンナーレに参加して以降、国際展へと発表の場を広げ、日本の現代彫刻を牽引する存在として高く評価されている。
《28の死 II》では、チェーンソーによって彫り込まれた無数の襞が織りなす重層的な造形に木材の削りくずを燃やした灰を混ぜたアクリル塗料が塗られることで、緊張感のある表情が生み出されている。その表情からは、生まれることもまた何か別の状態からの「死」であると語っている戸谷が作り出す、生と死が隣り合いながら、ときに反転していく一つの世界の構造を見てとることができる。戸谷は素材を彫り、刻むことでそこに内在する何かをえぐり出し、人間や自然の原初的、根源的な性質ともいうべきものを現出させている。
1950年岐阜県生まれ。1960年代から70年代にかけて芸術の原理をラディカルに問い直したミニマリズムや「もの派」の洗礼を受けながらもその思想に対して批判的な意識を向け、それらの地平を越えることを課題として、焼成した木、水、土、金属などを用い、〈円環〉、〈空洞性〉等を造形の核とし作品を発表してきた。1980年代には、ドクメンタやヴェネツィア・ビエンナーレにも出品、北欧と英国で巡回展を行うなど、日本を代表する彫刻家として、国際的にも高く評価されている。
美術における物語性の復権を掲げた遠藤の作品では、舟や桶、柩(ひつぎ)などのモチーフが古(いにしえ)の文化や神話的な物語を喚起する一方、水や火などのプリミティヴな要素が、人間の生命の根源にある生と死といった感覚を私たちの中に呼び覚ます。作品の圧倒的な物質感や大きさは、私たちの身体感覚にダイレクトに働きかけ、畏怖と恍惚が、そして生と死が一体となった、より高次元の感覚へと観る者を導いていく。
《EPITAPH》の素材の表面は炎で漆黒に焦がされ、内部の空洞には水が入っている。これらの作品の構成要素は、これ以上還元できない非常に安定した物質として私たちの目の前に出現し、私たちに物質を通じて大地と繋がるような感覚を呼び起こさせる。遠藤の作品は世界の不可視の構造へ私たちを引き込もうとするのだ。
1934年北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。日本デザインセンターや河出書房新社などでの勤務を経て、1968年に独立。1960年代初期よりカメラ雑誌を中心に写真作品を多数発表。写真表現を通して「私性」と「遊戯」を追求した写真家として知られる。
深瀬は自身の妻や家族、飼い猫、自分自身などを被写体とし、自身の私生活を深く見つめる視点によって、1960年代の日本の写真史のなかで独自のポジションを築いた。1976年の春、深瀬は破綻した結婚生活から逃れるように幼年期の原風景が残る北海道に向かい、網走、襟裳岬などを訪れ、同地に数多く生息するカラスにレンズを向けた。東京に戻り山岸章二に写真を見せると、カラスがよく映っていたことから「烏」を題名にすることを薦められ、1976年に、15年ぶりとなる写真展「烏」を開催した。この展示により翌77年に第2回伊奈信男賞を受賞し、「鴉」は深瀬の代表作の一つとなった。その後も自身を被写体とした「私景」シリーズを発表するなど精力的に活動を行ったが、92年6月深瀬は行きつけのバーの階段から転落し、重度の後遺症を負ってしまい以降は特別養護老人ホームで介護を受けながら過ごし、二度とカメラのシャッターを切ることはなかった。
2014年にトモ・コスガにより深瀬昌久アーカイブスが設立され、回顧展の開催や写真集の復刊が相次ぎ、長らくベールに包まれていた作品群の全貌が明らかにされた。
1932年名古屋生まれ。東京芸術大学日本画科を卒業後1958年に渡米し、その後もニューヨークで制作活動を継続。1960年代、70年代のアメリカにおけるミニマリズムを牽引した作家と評される。初期は日本画の顔料や和紙を用いた作品を制作していたが、1961年のニューヨークでの初個展以後はアクリル絵具による単色の幾何学的形体を組み合わせた平面作品に移行し、表現者としての主観を排除し、純粋な芸術および芸術体験を志向した作品は現在でも国際的に高い評価を得ている。
桑山の作家活動の変遷は、初期の日本画の顔料を用いていた顔料の時代、1969年頃までのアクリルペイントの時代、80年代の油彩の時代、そして空間そのものを作品として提示する時代、というように辿ることができる。その中でも、《無題(TK1196-ʼ62 ⻩、赤)》はアクリルペイントの時代に位置し、表面のマットな質感や構図には桑山作品全体に通底する、禁欲的な制作態度が顕著に表れている。本作品には赤や黄が用いられているが、感情を超えたニュートラルな領域の存在を作品に求めていた桑山が人々の何らかの感情と結びついてしまうこれらの色を使用することは段々と少なくなっていき、アルミを入れたメタリックな色を頻繁に用いるようになっていく。
1911年宮崎県生まれ。1936年に印画紙上に自身のイメージを定着させる独自のフォトグラムを独創して「フォト・デッサン」と名付け、作品集『眠りの理由』を出版して美術界にデビューした。1951年には画壇の権威主義を否定したデモクラート美術家協会を結成し、靉嘔など彼を慕う若い芸術家たちが多く集った。瑛九は油彩画やフォト・デッサンの制作を行う一方で、独学で版画制作も精力的に行い、300点以上の銅版画、150点以上のリトグラフを残している。
瑛九は様々な技法や材料を用いて、写実からキュビズム、シュルレアリスムそして抽象表現へと作品を展開させたが、1957年以降はデモクラート美術協会の解散によって、団体活動、日常生活の煩雑さから解放され、油彩による抽象画の制作が中心になっていった。その抽象画の画面上には当初、円形や方形が現れていたが、それらは次第にオハジキ状の丸となり、丸は砕けて弾け、最終的にはうごめく点となった。そして、点はさらに小さな点となり画面全体を覆い尽くすまでに至った。この変遷を踏まえると、《林》は瑛九の油彩画の局地とも言える作品であり、瑛九独自の宇宙のような広がりを持つ精神世界が広がっている。
1932年愛知県生まれ。日本を代表するコンセプチュアル・アーティストのひとり。愛知県立第八中学校を卒業後、51年に上京。鉛筆素描の「浴室」シリーズで注目を浴びる。1959年にメキシコに渡る。その後、1965年よりニューヨークを拠点に活動を開始。1966年1月4日からは単色で塗られたキャンバスに白色で制作年月日のみを描く《Todayシリーズ》の制作をスタートさせ、これはのちの代表作となった。1966年以降、カタログ等にも一切公式の場に姿を見せず、作品について語らず、インタビューなども存在しないなど、その実像を隠し続けた。
《Todayシリーズ》は、その日の0時から制作を始め、その日のうちに完成させること、絵にはその日の作家の経験に関する情報(新聞の切り抜きなど)が入った容器を付属すること、絵はその都市で使われている言語、年代、句読点の規則に合わせて作られること、というルールに基づきつくられたもので、生涯に渡って続けられた。一日で制作を終えるにも関わらず、このシリーズの制作工程はかなり細かく行われていた。背景色は何層にも塗り重ねられ、日付の文字は手書きでアートナイフを用いて丁寧に形成されている。絵の具の乾燥時間や、文字の修正を繰り返すなど、かなりの時間を費やしていたことが見て取れる。
1936年東京生まれ。1954年、東京藝術大学に入学し、小磯良平に師事する。大学卒業後はサラリーマンとして仕事をする一方、1963年に赤瀬川原平、中西夏之とハイレッド・センターを結成し数多くのパフォーマンスを展開した。ハイレッド・センターの活動は赤瀬川原平が起訴された千円札裁判を機に収束し、高松は個人の活動にシフトしていく。代表作である《影》シリーズの制作を経て、1969年頃より、高松は「単体」シリーズにおいて木や石といった自然の素材を用い始める。《レンガの単体》はそのシリーズの一部である。
この作品で高松は自然の素材の一部を加工し、また元に戻すことで、状態は変わっても総体としての物の存在は変化しないことを示した。ここには活動初期から一貫する、自己同一性の問題が取り上げられている。その後も高松は現実生活において出会った現象、事物、事件などを、独自の思考プロセスを経て概念化し、方法、スタイルともに多彩な作品を展開して根源的な問いを放ち続けた。
1937年神奈川県生まれ。前衛芸術のみならず、マンガ、文筆、写真など様々な分野で活動した。1955年に武蔵野美術大学入学後、1958年に読売アンデパンダン展に初出品し、1960年に吉村益信らと「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成。1963年には高松次郎、中西夏之と共に、「ハイレッド・センター」を結成し、「ミキサー計画」として《模型千円札》や梱包作品を発表したほか、「首都圏清掃整理促進運動」などのパフォーマンスを行う。1964年、《模型千円札》が違法であると起訴され「千円札裁判」が開始、最終的に有罪となる。赤瀬川は、1963年頃から千円札を印刷発注し始め、印刷千円札を用いたオブジェ作品や梱包作品を制作して読売アンデパンダン展で発表した。赤瀬川が最初に制作した《模型千円札》は1963年2月に新宿第一画廊で開かれた個展「あいまいな海について」の案内状としてであった。
本作品《模型千円札Ⅲ》は1963年の5月に制作された物であり、クラフト紙に黒で印刷するように依頼したものの、誤って緑で印刷されたという物である。一枚の紙に3枚分の千円札が印刷されたものが300枚程あり、断裁はされていない。これらはオブジェを梱包する際にそのまま使用された。赤瀬川はこの作品を通じて、お金の価値は信用に基づく曖昧なもので紙幣は印刷された紙に過ぎないという本質をあぶり出した。